小林 大介 – DAISUKE KOBAYASHI
愛知県一宮市出身
庭師、ミュージシャン、ウェブ制作などを中心に愛知県で活動後、オーストラリアに移住。
バイロン・ベイという素晴らしい街に出会い、そこを中心に約2年間住んだ後、徳島県南部の田舎町に定住。2014年からは映像制作、写真撮影を中心にウェブコンテンツ制作を行う。釣りや山の猟師でもあるため、原始的なライフスタイルへも行き来するマルチクリエイターとして活動。映画、音楽、漫画などのサブカルチャーを幼少の頃から好み、そうしたモノに影響を受けたことが現在のクリエイティブな表現へと繋がっている。
影響受けたモノ
Favorite
Quentin Tarantino監督のPulp Fiction、Christopher Nolan監督のMemento、Interstellar、Danny Boyle監督のTrain Spotting、Sean Penn監督のInto The Wild、The Beatles、Miles Davis、手塚治虫の火の鳥、ブラックジャック、大友克洋のAKIRA
物語
Story
1980年
10月20日、小林家の次男として生まれる。
1984年
幼稚園の近くの絵画教室に通う。とにかく絵を書くのが大好きだったし、先生を教室に閉じ込めるいたずらも大好きだった。
1986年
「鳥山明のヘタッピマンガ研究所 あなたも 漫画家になれる!かもしれないの巻」に影響を受けていたので、将来漫画家になりたいと考えていた。実は鳥山明先生が隣町に住んでおり、ドラゴンボールの原稿をジャンプの連載に間に合わせるためにせっせと書いていた事を知ったのは大人になってから。
1988年
小学三年生でザ・ブルーハーツのライブに尾宮くんと行く。生まれて初めてのライブで周りは背の高い大人だらけだったので怖かったし緊張していたのを覚えているが、河ちゃんの「真夜中のテレフォン」はそれ以上に忘れられない。確かバスト・ウエスト・ヒップのツアーライブだったように思う。これ以降J-Popに全く興味を示すことなく、パンクやロックを追求し始める。
1992年
「ファイナルファンタジーⅣ」を澤田くんに勧められてやってみたら面白すぎてどハマリした。澤田くんは土曜日に家に遊びに来てモスバーガーを4個も食べていく、図々しくも面白い奴だった。この頃は自分のRPGゲームのカセットを人の家に行ってプレイするという、謎の遊びをしていた。
1994年
家を立て直すから近所のボロ屋に引っ越す。中2の夏休みだったが「青春の影」というトラウマ級なドラマなどの影響もあってか?この時の思い出が今でも強く残っている。これが中二病の病原菌というやつなんだと思っている。
1995年
土曜日、中学校から帰ると小林克也のラジオ「Zip Hot100」を聴いて洋楽の情報を得るのが日課だった。そこで聴いたRed Hot Chili PeppersのWarpedにしびれたので、パンプキンというCD屋さんに買いにいく。他にもGreen DayやBlur、Nirvanaなどのオルタナティブミュージック、カウンターカルチャー的なモノに惹かれはじめる。これが今の僕を作っている原点だと感じている。因みに一番最初に買った洋楽CDはThe Clashのシングルス。名盤です。
1996年
田舎はダサいやつが多いから都会の高校に行きたいという捻くれた理由で、名古屋の高校に進学。限界集落に住む今では全く考えられないが、毎日通勤ラッシュの電車に一時間乗って高校に通っていた。当時は都会に憧れていたし、そこで見てきた様々なストリートサブカルチャーがかなり楽しかったし、それが僕の原点とも言える。僕は自分のことをオルタナティブ世代と呼んでいます。
1996年
兄に観せられた「UK/DK」で完全にパンクにハマり、パンク/ハードコアを聴き始める。The Clashなどに影響を受けつつも、Discharge、Exploited、DisorderなどのハードコアバンドからスキンズOiパンクなど、イギリス〜ヨーロッパの80年代のバンドを掘り下げまくり、名古屋-大阪のパンク/ハードコアシーンにどっぷりと浸かる。高校生の夏休みには見事な緑のモヒカンにしていた(笑)
▲19歳ぐらいの頃。ギターボーカルをしていました。
2001年
15歳からギターをやっていたが、全然弾けなくて楽器は自分には難しく感じていた。しかし直感的にやってみて楽しかったドラムを熱心にやり始める。このあたりからパンク熱は完全に冷め、ロックンロールやジャズ、ブルースに興味を持ち聴き始める。特にArt BlakeyのドラミングやEvlin Jonesのダイナミックさには度肝を抜かれた。因みにこのウェブサイトのURLはそのEvlin Jonesの出生名Rayを付けてしまっているほど影響を受けている。でも一番影響を受けたドラマーはLed Zeppelinのジョン・ボーナム。
2002年
高校生の時からなんとなくバンド活動はしていたけれど、本格的にバンド活動をし始める。名古屋ということもあり、Blankey Jet Cityの影響を多分に受けたバンドだった。これ以降はひたすら音楽にのめり込み、ジャズ、ブルース、ソウル、リズム&ブルース、ファンク、ハードロック、フュージョンなどの音楽を聴いては日々研究をしていたし、合わせて映画も毎日観まくっていた。今思えばつまらなく感じていた現実が嫌で仕方がなく、現実逃避をしていたのだと思う。レンタルビデオショップに行って毎週4本のDVDと5枚のCDをレンタルするのが日課だった。お陰で耳と目の解像度が異常に上がったが、反面ドラムをやり過ぎて普段使いの耳は非常に悪いため、今でも2人以上の会話をうまく聞き取ることができない耳になってしまった。
2007年
音楽好きが高じて、音楽が生まれた街ニュー・オリンズへ行く。夜のフレンチクォーターを歩けばどこのバーもDr.Johnスタイルのミュージシャンだらけでライブだらけ。The Metersのメンバーにお会いしたり、5時間以上も練り歩く本場のセカンドラインに参加したり、地元フェスに行けたり、ラッパーCommonが目の前にいて即興ラップを繰り広げたり、本場のガンボを食べたり、カフェ・デュ・モンドのベニエの美味さにビビったり、夜中のライブハウスで眠さで気絶しそうになりながら観た、LettuceのドラマーAdam Deitchの粘りのあるファンクドラミングに惚れたり、素晴らしい経験が出来た。2005年にハリケーン、カトリーナの被害をうけた2年後ということもあり、街はまだまだ復興への動きが大きかった時期だった。
▲リズミカルなマーチングスタイルで街を練り歩く葬儀パレード「セカンドライン」に参加。
2007年
インターネットとコンピューターに興味があったため、WEBサイトの作り方を学び始める。毎日ひたすらコードを模写して、サンプルウェブサイトをいくつも作っていたらいつの間にか自然と書けるようになっていた。20代前半にドラムのトレーニングで、とにかく毎日反復練習をしたらスキルが伸びるということを理解していたため、スキルの獲得はこれ以降容易になった。この時バンドをやめて音楽以外の自分の人生を模索しはじめる。ユニコーンが解散してからしばらくしてソロ活動をはじめた奥田民生が、インタビュアーに「一年間何をしていたんですか?」と聞かれた時に「釣り」とだけ答えた人生に憧れ、釣りをはじめる。
2011年
WEB担当をしていた会社をやめ、目的は何もなかったがオーストラリアに行く。バイロン・ベイという所にたまたま行き着き、大好きな街となる。ストレスを抱えて生きてきたつもりはなかったけど、この街に住んでから驚くほど身体が軽くなった。初めて自分はストレスがあったことに気づく。一緒に住んでいた方が寿司屋のオーナーだったためそこで働く。料理や包丁の使い方、魚の捌き方はこの辺りから覚えていった気がする。バイロン・ベイは僕にとって人生のターニング・ポイントとなる場所。
▲夕日とゆるいサーファーたちがとにかく心地良い。これを見に行くためだけに訪れても良い場所。
2013年
ALSという難病で7年間闘病をしていた父が亡くなる。この時オーストラリアにいたがすぐに帰国し、無事に見送ることができた。この時自分の人生をもっと自分らしく生きようと決意した瞬間だった。過去にアイス・バケツ・チャレンジというチェーンメールのようなモノが流行った。趣旨は理解するべきではあるが、ALSを間近で知っている人間からすると非常に不愉快なモノだった。物事を多くの人々により知ってもらうためにバカであればあるほど広まりやすいという事実は本当に残念である。
2015年
オーストラリアから日本に戻り徳島県に移住をしてみた。とにかく釣りがしたくて海の近くに住みたかったのでどこでも良かったというのが正直な所だが、ボクの住む地域はクラゲのようにのんびりとした人たちが多く、クラゲ体質の自分にはとても住みやすい町だと感じている。この時カメラも始めた。毎日写真を1000枚ぐらい撮っていたら仕事が舞い込んで来るようになった。
2018年
「DAISUKE KOBAYASHI」という屋号で個人事業主として開業。若い頃から音楽、映画などのサブカルチャーで培ってきた感性と、2015年以降に始めたドローンやミラーレスカメラに代表するテクノロジーの進化によって、カメラを使った生業をしていくことが自分の中で自然とクロスしたのだ。腑に落ちた時に個人事業主としてクリエティブな仕事がしたいと思っていたのだが、このクロスした瞬間は今でも忘れられない。またこれまで働くということは「お金を稼ぐための手段」としか考えてこなかった人間だったのだが、働くこと=自分のライフスタイルと同義になった瞬間でもあった。38歳にしてようやく自分の生き方を見つけられたように思う。
2020年
『あることを達成するには最低でも7年の年月をかける必要がある』と、ボクが非常に尊敬しているクリエイター高城剛さんが常々言っているのだが、2013年にボクは『どこでも仕事ができるスタイルの確立』を計画した。それから7年…カメラを始め、映像を制作し始め、それを仕事としている。どこでも仕事ができるスタイルを確立することができたのだ。
お問い合わせ
CONTACT
映像制作、写真撮影のご依頼、不明な点やご要望などありましたら、
お気軽にお問い合わせください。